昭和57年05月23日 月次祭
神も喜び氏子も喜び、金光大神もの歓びじゃと仰る。そういうおかげが信心の理想であり、理想郷はその先に合楽世界があると思うです。神も喜び氏子も喜び金光大神もの喜びじゃと。そういう三者一体。いうなら天地人一如の世界に、住まわせて頂こうと言う様な願いを持って、信心を進めて行かなきゃいけません。おかげを頂かねばならんから、お参りをすると言う事ですけれども。
御参りをしたからには、何かを頂かなければ。何かをどこの端からでも頂いて、それを自分の血に肉にしようという、意欲的な信心をさせて貰わなきゃならん。今夜はどういう良い、素晴らしいお話でも、はぁ本当に感心した、素晴らしかったという。そん時にはまぁ(じように?)乗ったに致しましても、何時までも続くもんではありません。食べ物でもそうです。栄養のあるものを沢山とったから、そん時だけはそれで良いでしょうけれども、それが何日も続くと言う事はありません。
御腹がすいたら、また食べなければならん。体が弱ったら栄養の付くものを頂かなければならないようなもんです。信心はそうです。もう知った覚えた合楽理念のマスターが出来たというだけではなくて、マスターしたその信心が、日々信心の生活の上に、今日さきほど前講の先生が申しておりましたように、毎日毎日を今日も実験実証させて下さいというて、まぁ祈り願わせて頂きながら、喜びの追及をしておると言った様なお話をしてましたですね。それなんです。
今日ある先生が、昨日は田主丸の共励会でございましたが、あちらにおかげを頂いたら、ある方が私の事を私の事その方ですね。その情念が足りない。信心の情念が足りないと言うが信心の情念とは、どう言う事でしょうかと、まぁお伺いをされた方があったらしいです。それでまぁそれに対して、的確なお答が出来たかどうか分からんけれども、大体どう言う様な風に答えたら良かったでしょうかと言うて、今日先生が出て参りました。そうだなぁこの神様は情念の神と言われるから。
こちらもやっぱその気になって、その情念を燃やすと矢張り、その情念と情念がまぁ交流し合う。そこからいうならばおかげが受けられる。それについてまぁ色々それが当たっておったかどうか知らんけれども、色々お話させて頂いたが、その事をずっとこう思うてみてです。今日のお祭りを頂きながら。まぁ沢山のお供えがトマトだけでも、それこそ一所からかと思うたら、福岡からも来とりゃあちらの八女の方からも来とる。あっちこっちから箱で来とりますね。
お魚なんか皆さんが昨日ある方のお誕生で、大きな鯛を三匹も頂いたから一匹自分の家に頂いて、こちらにお供えして頂きたいち言うて。持って見えたようにもうとにかく、まぁ沢山なお魚でもお供えが集まってます。これがほんなら私が今朝から、皆さんに聞いて頂いた様な、やっぱり難儀な時があったんですけれども。まぁ歌の文句じゃないですけれどもね。「叩かれながらも、その手にすがる」と言う歌がありますよね。どんなに叩かれても叩かれても、ね。やっぱり縋ってくる。
もう最後には命をかけて縋ってくる。もう幾ら私でもそのまぁ、厚かましかってももう五辺も六辺も、借金の断りも言い難い。お月次祭たんべんに、三井教会の総代さんでしたから、この次の月次祭にはこの次の月次祭にはと言うて、それこそ二の句もあげんで払わんもんだから、やっぱりもう本当に大坪さんばかりは見そこのうたと、という風に言われた時代もあったんですけれども。
もう今日という今日ばっかりは、どげん思うたっちゃ行かれん。福岡から帰っては来ましたけれども、とうとう福岡から、そして宮の陣で甘木行きに乗って、大木から歩いてお参りをするんです。どうしても出来んです。それで神様に一生懸命、お願を褪せて頂いたら、もう今日は三井教会には参るなと。そして本郷の教会に参れとこう頂いた。私は本郷の教会は知らなかったんですもん。
はぁ良かったこれで助かったと思うてから、本郷まで参りまして、降りて始めてですから、神様にお伺いさせて頂いたら、その時分な色々とお知らせを頂いておりましたから、右に行け左に行けと。確かに降りて右の方へ。いっぺんやってみたいと思うですそこへ。いっぺん農道をこう歩くいて行っておりましたら、行き当りが大きな堀になってしまってから、先に行かれなくなってしまったんです。そこで私はまたそこで、神様にお願をさせて頂いたら、今朝の御理解ですね。
死んだ気で励め務めよ。務めよとこう徳が受けられると、ね。人の助かる道も開けるという御教えお歌を頂きました。それからもう腹を決めてあの三井教会にまた取って帰させて頂いた様な事でございましたが。あの時分の私の方のお神様のお供えといや、もう本当に水尽くしであった。お月次祭というても表に、少しばっかり作ってある、ニラが何時もお三宝に小さいお三宝ですから一台。(食事進展から、?)
もう売られないというて、捨てなきゃならんと言った様な沢庵のこう、後先が腐ったような奴を真ん中良かとこだけ切ってから一台。それにまぁ塩ぐらいはほんなもんがあったでしょう。御神酒錫の中にも水、水玉には勿論水です。と言った様な時分に神様が「水尽くし魚尽くしになるまでは、離れられぬがわしの心じゃ」という風に頂きよった。ほんなこつそげん事になるだろうかと思いよったら、やっぱなってきた。ね。本当に「水尽くし、魚尽くしになるまでは、離れられぬがわしの心じゃ」と。
そこで私は私どもの情念と神様のそういう、離れられない様な情念を、私の上に起こして下さったというのは、どう言う事からだったであろうか。皆さんどういう難儀、どういう困ったという、・・・それこそ「私は、野に咲くアザミの花よ、踏み倒されても横に咲く」と言った様な時代です。踏み倒されても踏み倒されても、やっぱりこうやって生き生きと咲く。それこそあの奴さんの歌の文句じゃないですけれどね。「首尾をして、会いに来たわいな」と言う所がありましょうが。
もうとても来れない行かれないない。それでも何とか首尾をして会いに来たという、そういう情念です。誰が何と言うてもどういう時でも。それはねまぁ一杯神様の前に論理が立つんです。今日はこういう風に忙しくしてこうこうな事情があってお参りが出来ない、と例えば言う様な時でも嘘を言うてでも無理してでも、矢張りその神様通いをさして貰わんにゃおれない。これは私の情念であったと思うです。踏み倒されてもすがって行った。叩かれながらでもやっぱ縋って行ったというのは私の情念であった。
その情念に神様がほだされなさった。そして今度は神様の方が離れられんと言う事になられた。今こそ水尽くしだけれどもね。これがそれこそ御神酒尽くしであり、まぁいうならばお魚尽くしになるまでは、離れられんのがわしの心じゃと。ほんならもうこんなに魚尽くしになったから、離れなさるかというともうそれこそ、私と神様との間は誰が何と言うて水を差しても、離れられることの出来ないものが、私と神様の情念だと思う。そこから合楽世界が生まれた。
合楽のゴヒレイはそこから日々生み出されて行っておるという風に思うんです。信心の道と言う事は確かにおかげの道に繋がるのですけれども。まずは、信心の道を、体得すると言う事。今日はどういう教えを頂くであろうかと、という構えを持って私は教会には通うてこにゃん。ここには信心の稽古に通うてくる。 私は今日あの宮崎の渡辺さん達が、ご夫婦でお参りになっておられます。丁度電話が掛って来た。自動車がその油がずうっと漏ってから遠くへ行かれない。
それでもやっぱりお参りしたい。だから出て来なさいち私が言うたんです。朝から丁度先程、お祭り前に着かれたんですけれども。そこで止まりここで止まりしながらも、矢張り心は合楽合楽と、情念を燃やさなければ出来る事じゃないですね。どんなんでも今日は、お参りしようと思いよったけれども、自動車が故障で油が、こうやって漏って出来ませんでしたと言うても良い訳。神様の前に言い訳は出来る訳だけれども。それでもやっぱり、参りたいちいうこつ。どこで止まっても良い。
そこからお参りをしたい。私は今日先程お二人のお取次をさせて頂く時に、これがやむにやまれんものだなぁとこう思うた。信心にはね、このやっぱやむにやまれんというものが、段々こう募ってくるおかげを頂きたいですね。今日久留米から、もう二度お参りここの石田先生の息子さんの奥さんのお母さんか。という方がこの頃ちょいちょい参って見えます。娘さんも今日で二回でしたでしょうか。
ある事で参ってこられるようになったんです。そして私お取次させて頂いたら、あの手辺に立つという字を書いて女ですね。接するという字を頂いたから。私がその事をまぁだ合楽の話を聞かれんから、分かられまいと思ったけれども、頂いた事だけ私が伝えたんです。おかげを頂かなければならんというのは、神様と人間氏子の間に一つのおかげのルートが出来なきゃならんのですよ。繋がりが出来なければいけない。そのルートを辿って、おかげもまた流れてくるのだから。
それはどういう時に、神様との接点が出来るかと。神様との接点が出来るかというと、叩かれる時言うなら腹の立つ時、悲しい思いをする時、困ったなと思う時ほど立ち上がれと言う。立ち上がる女と書いてある。そういう時ほど腹を立てずに悲しまずに、神様と心を神様に向けてくる。そういう中からね神様との接点が生まれてくる。だからお互いがね神様と交流しなければならない、いや交流しようと、神様が働きを起こして下さっても、それを不平で不足で悲しみで、もし受けたんではです。
折角の接点にならない。惜しいことですね。そこにいうなら踏み倒されても踏み倒されても、横に咲くいうならアザミの花の様な、神様へそれこそ叩かれながらも、その手に縋って行くという、私は執念にも似たような情念がね。神様に向けられるような、おかげを頂くとです、今度は神様の方がもう握って離さんと、言う様な事になってくるのじゃないでしょうか。私はまだ私の実感ですけれどもね。皆さんがこうやって、おかげを頂いてお礼参りをしてくるとね。
もう本当に皆さんの手ば、こう握ってから額口にでも引っ付けて、こうこうでもしょうごたるです。神様と交流しよりなさる時ですから。で私は誰でんそげなこつする訳にはいかんけん。この頃赤ちゃんが沢山参ってきますから。赤ちゃんを私がもう必ずそこん上に上げさするです。手をこう握ってから、私がもう見らんならこっちを見てち、額口に引っ付けたりするんです。恐らくあらもう嫌とも言いよるでしょうね。髭面ばあつるけんで。(笑)所がねそのやっぱ通うんですよ。
ほっでもう手ばこう握ってから離さんとですね。なぁんもしよらんこっちの方が、握って離しよらんとじゃもん。今赤ちゃんばっかり、ここには八人居りますからね。先生方がみんな親子三人連れで出てくるんです。必ず出てくるんです。もうこの頃必ず、まるきり子供ばお取次頂くために、連れて来るようにして連れてくるです。そすと私はもうそげんとは、あっち置いといて、ほう、お参りがあっとったて私が一時ばっかり、その握って離さんです。可愛いですもう食べてしまおうごたる。(笑)
私はその情念というものがね、だからその本当にそこに、起こせというて起こせるもんじゃないと。為には愈々合楽理念の、いうなら実験実証させて頂いて、神様をいうなら身近に頂かせて貰う。嘘を言うてでも首尾をしてでも逢いに行かねばおれない、その情念をです燃やさせて頂くと言う事。そこから神様が今度は又情念を燃やして下さる。神様はこちらが離そうと思うても、神の方から本当のおかげの頂けるまでは離れられないと、神様が仰る様な信心から、いうならば合楽世界が生まれたと思うんです。
金光大神も喜び、神も喜び氏子も喜び、三者一体になって喜べれる世界を目指す。只お参りをして今日は、何を頂いて帰るだろうかと。心わくわくさせるような思いで、まぁ合楽に向こうてくる教えを頂く。そこからこれだと思うものを頂いたら、それが血にも肉にもなってくる。一遍頂いたから良いと言う事ではありません。これはどんなに栄養のある食べ物を食べても、一遍食べたからそれでよいと言う事ではねい。何時も絶えず頂いておらなければ、お腹もすくし栄養も欠けてくるのです。
信心も同じ事。愈々信心の有難い世界を、愈々広げて行き愈々、深めて行くおかげを頂く。自分の思い情念が愈々、深く広くなって行くと言う事に他ならないとこう思うんです。合楽通いがもう本当にまぁ今日は月次祭じゃから、お参りせじゃこてと言うのじゃなくて。もうそれこそ指折り数えるような思いで、合楽通いが出来る様になる時には、もう必ず信心が血肉になって行きよる時だと思います。
そして成程まだ今こそ水尽くしと言う様なお方も、沢山あろうと思う。一杯難儀を抱えておるという時にはその時でしょうけれども。そういう時を愈々大切にする。神様との接点、言わゆる神様と通う、交流出来れる大切な時期であるとして、大事にして行く所から。神様がそれこそ魚尽くしになるまでは、離れられぬが神の心じゃと仰せられる様な、おかげを下さった時。初めて神様の深さ、神様の思いが分からせて貰えるのです。どうしてもこりゃ普通でなからにゃ出来ません。
いうなら信心の情熱が、枯れては出来ません。拝まにゃ通さん改まらにゃ通さん、研かにゃ通さんと言った様に、信心も段階があります。拝んだだけでおかげを頂いて、お願をする時代がある。お話を頂きますと、はぁここは改まらなきゃいけないな。又はこれを持って研かなきゃいけないなと言う様に、改まる事に研く事にこの思いが置かれるようになりますと、神様の心が通うて来る様になります。
そういう心をもってしないと、いわゆる叩かれた時に、神様とこう思うだけではなくて、その叩けれながらも、手に縋らずにはおれないというものが、生まれて来ません。おかげを頂かなければならんから、縋っておるというのではなくてね。縋らずにはおれないそういう心。私には情念が足りないと言われるが、情念とはどう言う事でしょうかという、今日は昨日の田主丸での質問があったそうですけれども。ほんならその方も熱心に、日参が出来れる方なんです。
だから日参が出来ておるから、情念が出来るという事ではありません。きちっとした信心が出来るから、やっぱ、きちっとしたおかげも頂きますけれども。それこそ神様の方が、離れられんと仰せられる様な信心。今日は秋永先生が、こう何か図解の様なものを持ってきて、お伺いに見えた。あそこの久保山茂さんが、経理の方を承っております。先日お夢を頂いてこんなにその、まぁ手の込んだと言うか。難しいお知らせを図解でこう書いてある。真ん中の芯が道徳。
そのまた周囲が普通道徳。そしてその横に○が一杯、こう付いておると言った様なお知らせを頂いて、どう言う事だろうかというのです。だからね道徳的であるとか、又は普通道徳であるとかというので、本当の道徳的になったら、それこそ清貧に甘んずると言った様なね。まぁ何ですかあの戦後に、それこそ道徳を貫こうとして、枯死されかつれ死にされたという、何か、弁護士さんか何かございましたですね。だからそれを少し緩めて、普通道徳になると、少しそのおかげの世界が広がってくるでしょうね。
合楽の場合はそのもう一つ越えた道徳なんです。超道徳なんです。だから超道徳という、まぁ合楽の御教えをだから、ほんなら私も先程も申しますように、まぁ大坪さんばっかりは、見損のうたと言われた時代もありました。まぁ本当に何というでしょうか。人非人という風にも罵られる時代もございましたけれども。これは超えたものであった。神様に私は本当にもう、大坪さんは人非人だという風に言われることが、耳に入って参りますから、神様にお願いしたら、お前は人非人だと。
人非人だけれどもね。人間であって人間であらず。いわば神に向こうて進んで行っておる時だという風に頂いたんです。これはだから超人情と言う事になりますでしょうね。だからその超の付くほどしの、いうならばおかげを頂くためには、矢張り私どもがね。神様と私どもの間にも、ただ道徳的で繋がっておる。ただ普通道徳的な考え方で繋がっておるんじゃなくて、そこをもう一つ越えた心。
それが私は今日皆さんに聞いて頂きます、神様との間に愈々交流する。それこそ叩かれながらでも、縋って行かずにはおれない。踏み倒されても矢張り、横に咲くアザミの花の様なものが、ね。こう言う信心してこう言うならばというても、普通道徳的な考えやら、普通道徳的な考えであったら、もう神様も、置いてしまいたいような時があるんですけれども。やっぱそこを超えておりますから。
そこを乗り越えた時にそれこそ、初めてそれこそままよという心も出る。死んだ気で、励み務めも出来る様になる。そこからこれが御徳だろうと思われる様な御徳の世界に入ることが出来る。そこから道も開ける、人も助かる。自他ともに助かって行くという様な、まぁ大変、難しいように申しますけれども、合楽ではどうしてもこの、お徳を頂く世界に入らなければ。合楽通いの値打ちはないです。
朝晩、そんな御理解ばっかりなんですから。ですからね、それが本当に身に付いて行くことのために、お参りをしてくる。おかげを頂かねばならんと言う事と同時に、信心を頂かなければならん。今日のお話の中のお徳を頂く、栄養になる教えというのは、何処であっただろうかと、その、栄養になる所だけを頂いて、自分の信心の血に肉にして行かなければならん。構えをね、作らなければならんと思います。
どうぞ。